- マンホール -

 中学生の甘田優(かんだまさる)は、イジメられっコだった。のっぺりとした顔つきの猫背で、悪いこともしていないのに申し訳なさそうな顔をしているのが人を苛立たせる風体だった。先輩や同じ2年の生徒には当然のことながら、後輩にすら指をさして笑われていた。
 優をイジメていた主犯格の肉川拳(ししかわけん)は、手ぶらで帰路についていた。シャープな顎で人をこき使う様は堂に入っていて、切れ長の目もそれに拍車をかけていた。拳の威を借る小心者がよくついてまわったので、拳は荷物を持たせたりパシリにしたりした。今は配下の人間はすべて使わせていて、拳の周囲には誰もいない。
 彼が路地を曲がると、そこに人影があった。
「おう、優じゃねえか」
 拳は優に声をかけた。しかし優は背中を向けたまま答えない。優は同じ場所で何度も何度も、ぴょんぴょんと飛び跳ねている。
「挨拶もねえとはイイ度胸だな」
 一発殴ってやろうかと考える拳だったが、ふと優の足元に目をやった。
 そこにはマンホールがあった。拳は朧げながら、社会の授業を――隠れキリシタンを見つけるためにキリストの絵を踏ませる踏み絵を――思い出した。優はいつものように猫背で表情は見えないが、憎々しげにマンホールを踏みつけているように思えた。
「キュウ、キュウ、キュウ」
 近寄ってみると、優は同じ言葉を何度も口ずさんでいた。初めはなにをいっているのかわからなかったが、拳はすぐに「9」という数字のことだと気づいた。
「なあ、9ってなんだよ。どういう意味だ?」
 やはり優はなにも返さない。9、9と数えながらリズミカルに飛び跳ねているだけだ。
「とうとうトチ狂ったか?」
 心のなかで思えばいいことも拳はお構いなく口に出した。
「おい、返事しろや」
 優を軽く小突く。確実に触れていて優も気づいているはずなのだが、優は無反応で飛び跳ね続けている。
「無視すんじゃねぇよ」
 拳は肩で、ぐいと優の背中を押した。ぐらりと体勢を崩して、優はマンホールの上から離れた。
 いつも学校ではイビられるだけの無能で無欲な優がこれほど夢中になるということは、ストレス解消にものすごく役立ったり、踏み心地がよかったり、とにかくなにか理由があるに違いない。拳は隣で力なく項垂れている優を足蹴にして、見よう見まねでジャンプしてみた。
 その瞬間、優がサッと動いてマンホールの蓋を取った。
「おいっ」
 拳は小さく声を上げて手を優に伸ばしたが、すぐに穴に吸い込まれていった。伸ばした手が穴の縁にぶつかったりしたが、拳の姿は消えて、無様な「わ〜っ」という悲鳴も小さくなって聞こえなくなった。
 蓋を穴の上に戻すと、優はその上でまた飛び跳ね始めた。
「10、10、10、10、10……」


 拳が落ちてから1時間後、まだ勝は飛んでいた。
「25、25、25、25、25……」

 拳が落ちてから10時間後、なおも勝は飛んでいた。
「113、113、113、113、113……」

 翌日、目をこすりながらも勝はジャンプしていた。
「269、269、269、269、269……」

 1週間後、腰を押さえつつ勝はトントンと跳ねていた。
「2058、2058、2058、2058……」

 1ヶ月後、ほとんど足が地から離れていなかったが優は頑張っていた。
「8384、8384、8384、8384……」

 1年後、優は筋骨隆々になってボディビルダーみたいになっていた。
「97812、97812、97812……」


 10年後、日焼けして黒くなった優を喚声が包んでいた。
「ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ!」
「999999、9999999、9999999……」
 テレビクルーが、女性レポーターを挟んで優と観客を映していた。
「現在、巷をにぎわせている『休むことなく飛び跳ね続けてマンホールに人を落とし続けた男』としてギネスに掲載される予定の甘田優さんが、目標の百万回に向けて今も飛び跳ね続けています!」
 優はトレーナーからスポーツドリンクと砕いた固形バランス栄養食を受け取り、固形食をドリンクで胃に流した――飛び続けながら。
「それでは、とうとうその瞬間をお見せしたいと思います」
 女性レポーターはマイクをADに手渡すと、ハイヒールを脱いでカメラに背を向けた。
「やああああああああ」
 レポーターは優に、不器用に体当たりするように突っ込んだ。
 優はそれを悠々と避けてマンホールの蓋をずらした。
「あぁぁぁぁぁれぇぇぇぇぇ」
 女性レポーターは円形の闇に吸い込まれていった。歓声が高まる。
「百万回! 百万回だ! 百万回だぞ!」
 観客のなかには感動のあまり涙に暮れている人もいる。
「ぐっ」
 優は膝をついた。歓声が心配の声に変わる。
 トレーナーが、倒れそうになる優の体を受け止めた。
「なにもいわなくていい……! お前はやったんだ。やりとげたんだ!」
 トレーナーは溢れる涙を拭おうとすらしなかった。
 優は小さく微笑んで――目を閉じた。
 一帯は静まり返った。ただトレーナーの涙が地面に落ちる幽かな音だけが漂っていた。


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