02章 「少女性愛ペドフィリアン」


 無機質な球状の部屋で、絵美はシャドウトレーニングを行っていた。ヴァーチャルエネミーと戦闘するシステムも整ってはいるが、今日はする気にはなれなかった。
 しなやかに動く体はとても柔らかく、たとえ着ているものがタンクトップとスパッツであっても、まるで舞を踊っているかのようだった。
 新しく来た男。勝也といったっけ。
 鄙弱(ひよわ)そうな体つきだった。たぶんあの痩躯、サチは嫌いだろう。
 前方の敵がジャブとストレートのコンビネーションを打ってくると想定する。一発めの左ジャブを弾いて落とし、右ストレートをかわしざまにこちらも右ストレートでカウンターを決める。
 サチが彼を好きになるかどうかとは別に、マルチフォビアンたちと戦っていけるのか、不安だった。戦闘要員としては、まず膂力(りょりょく)が心配だ。筋肉の力は破壊力、耐久力、持久力すべてに通じる。しかし彼にはそれが期待できなかった。
 背後から不意の攻撃がくる。しかし絵美はとっさにそれを避け、蹴りで吹っ飛ばした。優雅にポニーテールが流れる。空想上の敵がそのダメージから起き上がることはできないだろう。
 それにあの男……たしかペドフィリアンといったっけ。ペドフィリアといえば小児性愛を指す言葉だ。博士がそう名づけたということは、彼がペドフィリアであることは間違いない。となると、あいつが黙っていないだろう。不安を抱かずにはいられなかった。
 次々と襲いかかってくる敵を倒しながら、彼女は考え続ける。優にその数は20を超えている。
 それに勝也がフラグメントを使えるのかもわからない。あれだけは素質によるものだ。膂力というものは基礎トレーニングを行えば誰でも強化できる。それとは違い、フラグメントは素質のないものが手に入れる術はない。あの男がフラグメントを使えないときはおそらく――
 その瞬間、絵美の頭上から多数の黒い影が現れた。
 それらは彼女を取り囲み、一斉に飛びかかってきた。
 絵美は目を見開いて、強く念じた。まるでパントマイムでもするかのように、影たちは絵美に近づくことができないでいる。
 絵美は青筋を額に浮かべながら、叫んだ。すると今まであった壁が爆発したかのように影たちは吹き飛んだ。そして球状に窪んだ壁で跳ね返り、地面に落ちた。すると影は跡形もなくすべて消えた。
「趣味が悪いわね。人のトレーニングを覗くなんて」
『お主に助力できればと思うてな』
 壁の一面が横長の長方形に切り取られてスライドした。そこにはガラスが張られていて、博士が笑っていた。
「なにが助力よ。タチの悪いイタズラじゃない」
『いやなに、不意打ちというものは本人の想定ではできんもんじゃて』
 絵美は呆れながら、壁に歩いていく。すると今度は縦長に壁がスライドして、自動ドアが現れた。
 ドアを抜けると、小さな個室になっている。ドアがしっかりと閉じられたのを確認すると、絵美は横にあるスイッチを押した。するとプシュッという音と共に室内の空気が瞬時に吸い取られ、彼女は息を止めて目を閉じた。別に本当に空気がなくなっているのではない。これは汗を揮発させるための空気循環と同じようなものであり、服が吸った汗も乾かすことができる。そしてすぐにデオドラント用の微粒子が吹きかけられる。
 それに耐える間、絵美は我慢できずに息を止め、目を閉じてしまう。空気がなくなる感覚は嫌いだったし、デオドラントの微粒子を肺に取り込むのも、眼球についてしまうのも嫌だった。
 それはとても感覚的なもので、器質的でない。除菌、滅菌と叫ぶ世の中と同じで、そんなことが実現できないことはわかっている。細菌をすべて殺すこともできないし、そうしてしまえば逆に人間の菌への耐性がなくなってしまう。それが論理的にはわかっていても、心では理解できない。この個室を出るときはいつも、彼女は自分の心の弱さを知る。
 前方のドアが開き、長椅子のある休憩室に出る。長椅子の上に置いておいたペットボトルの隣に座る。
「どうじゃ、フラグメントの調子は」
 別のドアから現れた博士が、悪びれもせずにいう。絵美はすました顔で返す。
「とくに発動が遅いということもなく、威力が想定より減退してしまうということもない。かといって不随意に暴発したり、急激に体力を奪うような力の爆発もない」
「ふむ。というと」
「いたって普通ね」
「なるほど」
 絵美は足を組んだ。おそらく健全な青年であれば生唾を飲むような光景であるだろうが、博士は見向きもしない。彼女はそうと知っているからこそ、そうすることができた。たとえペドフィリアだとわかっていても、勝也の前ではできないだろう。心で理解できるまでは。
「まあ、普通でいいんじゃよ、今は。然るべきときに然るべき力を発することができる。これほど素晴らしいことはありゃせん。フラグメントはお主らインコンプリートには備わっておる能力じゃが、非常に繊細じゃ。まさにお主らの心のようにな」
 絵美は眉を片方上げて博士を見、そして目を閉じた。
 インコンプリート――不完全なる者。博士は彼女たちをそう呼ぶ。その真意はわからない。だが絵美自身は合点している。マゾフィリアンとして彼女は、自身が非常に脆く、憐れな存在であると確信しているからだ。だから勝也のことも、少なからず気になっている。
 もしあいつがフラグメントを使えなければ、おそらく殺される――


 勝也は雑然とした基地でベッドの上に横たわっていた。彼は事故のことを反芻していた。
 トラックにはねられて、死んだものと思っていた。死にたくはないけれど、死ぬんだろうと思っていた。けれど今、生きている。これは不幸中の幸いなのかもしれない。だとすれば、一度死んだものと考えて、彼女――絵美の言葉に従うのもいいかもしれない
『あなたがこのパラフィリアンに与するもしないも自由よ。ただどちらにせよ、あいつらは人を傷つけることをやめないわ。そしてヤツらは、あなたの好きな子供たちを傷つけることも厭わない』
 子供たちを傷つける――
 そんなことは許せるはずがない。赦していいはずがない。
 だけど、絵美という名の女のコや博士と呼ばれていた老人の言葉が真実だとは思えない。
 左目のガーゼをとる。寝台から降りる。どこにも痛痒はない。なんに使うのかもわからない薬品の棚の脇に、アメリカ映画で見るような汚らしい洗面台があった。
 洗面台の鏡は黒ずんでいて、大して効いていない電灯の光を溜まった水に鈍く反射している。
 鏡には、贅肉とは無縁の痩躯が映っていた。
 事故ではねられた後、確か顔を地面にぶつけたはずだった。そのまま数メートルアスファルトを滑ったのも憶えている。しかし勝也の顔は、事故以前となんら変わった点はなかった。骨折もしていたと思ったが、体を動かしてもどこも痛まない。博士の手腕なのかもしれない。そう考えれば感謝の思いが湧いてくる。
 でも――
 勝也は疑問を抱いた。あの事故の記憶は本当なのか?
 この施設、あの博士という老人、一言で表すなら不気味だ。21世紀とは思えない。それは汗と埃の混じった前時代的な嘘くさい臭いにも、現代医学や近代思想を超越した近未来的な希望にも感じられる。だがどちらも、容易に信じられるものではない。だがそのどちらからも、他者の脳をコントロールして記憶さえも操ることのできる技術を垣間見えた。
 あの事故が嘘なら、顔に傷がないのは当然だ。
 でもあの事故が本当なら、博士の手腕は恐るべきものだということだろう。
 勝也は、どちらを信じていいかわからなくなった。顔を両手で掴むように、強く叩く。鋭い音が響いた。苛立ちは消えず、痛かった。
 舌打ちをして鏡の前を離れると、辺りを見回した。天井はガラス張りなのか、晴れた空が覗いている。陽が照っているからか、それほど寒くはない。棚やラックで間仕切りされていて、倉庫は二分されている。こちら側には、寝台や薬、金属製の医療器具などが置いてあり、洗面台の隣には博士たちが消えたドアがある。
 勝也は間仕切りの隙間を抜けて、隣に出た。
 そこには驚くほど、なにもなかった。
 地面には剥き出しのアスファルトがあり、壁には錆びた鉄の壁があるだけで窓すらない。
 背後で大きな音がした。振り返ると、またなにもなかった。
 間仕切りを戻ると、なにもかもがなくなっていた。寝台も薬棚も洗面台もドアも。
 勝也は仕切りの間に立ち、左見右見(とみこうみ)した。なんら変わることのない「なにもない」という空間がそこにあった。
 愈々、夢なのかもしれない。


 外へ出ると、海があった。
 本当に海かはわからない。遠くに陸地がないことしかわからない。見渡せる辺りは、海に囲まれていた。
 振り返ると、今までいたところが本当にただの倉庫だと知った。なんら変哲のない、カマボコのような円筒を半分にした形をしている。その背後に、研究所のような白い施設があった。
 正面から覗くと、「ESP研究所 放葉島支所」と錆びた看板がついていた。支所の読みまではわからない。見事に門まで錆びている。4階建てのようだ。
 建造物の右側面から裏手に回る。壁が続いているだけだ。いやに風が強い。左側面には螺旋階段がついている。正面から入るのは躊躇われて、足音を立てないように螺旋階段を上った。
 上がっていくと、次第に遠くが見渡せるようになった。より遠くまで陸地が見えないことがわかった。そして高くへ行くほど風が強く吹いていた。
 上りきると、屋上だった。やはり白いそこには、女のコが立っていた。髪が乱れるのも構わず遠方を眺めている。
 サチという名前だった気がする。白いワンピースと包帯が風になびいている。ふと病院にいるような錯覚を起こした。
「……大丈夫?」
 それがなにを意味するのか、声をかけた勝也にもわからなかった。そしてサチは反応を示さなかった。
 サチの視線の先を追うが、ただ空と海の境界線があるだけで他にはなにも見当たらない。
 ちらりと横顔を見る。その白面は、とてもこの場所に似つかわしく感じる。ボブカットの髪はたなびき、強い風が吹けば粉々に壊れて飛び散る彫刻のようだ。基本的に彫刻には髪はないが。
「あの」
 一際大きく声を上げた。ゆっくりとまばたきをした。しかしそれは彼の言葉に対してではなく、風で眼球が乾いたことによるものだったようだ。
 サチの目の前で手を振る。
 もっと叫ぶ。
 ノースリーブの肩に触れる。
 どれも徒労に終わった。
 彼女を押して立っている場所から動かしたりすればさすがに反応するかもしれないが、そこまでするのは可哀そうな気がした。
 左前方の眼下には、倉庫が見える。ぐるりと見回してみると、島であることがわかった。目立った建物はこの研究所と倉庫ぐらいで、後ろには森と山が、前には海が広がっていた。
 勝也は不穏な音を耳にして、周囲を見た。なにか鋸の歯を噛み合わせてギリギリと扱くような苦い音。変な装置でもあるのかと探してみるも、とくに見当たらない。傍らの女のコを見ると、手を伸ばしていた。
 音はサチの喉元から出ていて、首元のネックレスの宝石――まるでガラス細工のようだ――は赤く光っていた。そして彼女の手は右後ろにある屋上のドアに伸びている。
 ドアからは絵美が出てきた。
「どうかしら、具合は」
 勝也を見つけると絵美はそういった。絵美はTシャツを着てジーパンを穿いていた。そして愛おしそうにサチの手をつらまえた。するとサチの喉からの音はやんだ。
「彼女はね、上手に話すことを忘れてしまったの」
 絵美はサチを掻き抱く。すると猫のようにサチの喉からゴロゴロと音がした。
 サチのネックレスを絵美がいじると、赤い点滅はやんだ。
「急がなきゃ。あなた――小山内くんも余裕があるなら来て」
 開け放したままのドアに、返答も聞かずに絵美は走った。おいっ、と勝也はいったが、既に絵美とサチはドアの向こうにいなくなっていた。
 慌てて追ってドアを抜け、階段を下りる。建物のなかでは緊急のアラーム音がひっきりなしに鳴っている。4階の廊下に出ると、2人の姿を見つけた。勝也は必死にそれを追った。
 いくつかの階段と廊下を経て、絵美は1つのドアを開けて消えた。勝也もドアを抜けた。
 その部屋は機械だらけで、奥には大きなモニターがあった。
「来たか」
 モニターの前には博士が立っていた。


「相手は?」
 絵美がいうと、博士は大きなキーボード――その、100はあるんじゃないかと思えるキーの1つ――を叩いた。
 わけのわからない図式だった画面が、街に変わる。その中央に、走っている市バスが映っている。
「今このバスが街中を暴走しておる」
 たしかにそのスピードは尋常ではなく、他の車を追い越して走るバスはときおり片輪を浮かせてさえいる。
「そして相手はこの者じゃ」
 また博士がスイッチを押すと、画面が男を遠巻きに映したものに切り替わる。男の頬には傷がある。
「小児嫌悪ペドフォビアン――」
 絵美が呟き、博士は頷く。
「こやつがフラグメントで運転手を操っておる。このバスをここへ突っ込ませる気じゃて」
 画面が切り替わると、勝也は息を呑んだ。
「小学校……」
 それは勝也の家の前にある小学校だった。
「絵美は知っておるじゃろうが、こやつは『大』がつくほど子供嫌いでの。目的はこの小学校の児童たちを殺すことじゃろう」
 勝也の胸の奥が熱くなった。
「バスが小学校に辿り着くまではどれくらいかかるの?」
「約1.4×10の46乗tpじゃ」
「はい?」
「プランク時間で表した数字じゃ。もっと詳しく表すと1.41154910558609893×10の46乗tpじゃて、ヒョホッ」
 異様な声で笑うのを無視して、絵美は「分と秒で表して」と促した。
「まったく無粋な女じゃて。今じゃと12分35秒じゃ」
 あまり時間がないわね、と絵美は歯噛みした。博士は34秒、33秒と残りの時間を正確にカウントダウンしている。
「もしバスの小学校への衝突を防げなければ――?」
「そのときは大量虐殺は免れんじゃろうな。おそらくバスには爆発物がしかけられておる。それを取り除けなんだら、小学校でなくとも被害は抑えられん」
 大きな音がして、2人は振り返った。
 勝也が顔を赤くしていた。それほどの血流が彼にあることを、絵美は意外に感じた。
 ――大量虐殺。子供を。
 ――大量に。虐殺。
 怒りのあまり無意識に壁を拳で叩いていた。壁は窪んでいる。
 絵美と博士は視線を合わせた。博士が頷く。
「小山内くん。これから私はバスを止めに行かないといけない。もしあなたが希望するのならあなたも同行してもいいわ。でも――」
 訓練もろくにしていないから、危険でもあるけれど。そう彼女はいおうとした。
「――構わない!」
 しかし絵美の言葉を遮って、勝也は叫んだ。その目からは、涙が零れていた。
「そんなヤツは許せない。赦しちゃいけない!」
 絵美は驚いていた。さっきまでの勝也とは違い、まるで触れればこちらがケガしてしまいそうだ。
 彼女は博士に頷きかけると、こっちよ、と勝也を促した。博士がキーボードを叩く横を抜けて、自動ドアへ入っていく。
 そのなかには円筒を縦にした形の装置があった。
「これは転送装置。人を瞬時に別の場所に送ることができるわ」
『とはいっても座標を正確に指定することはできんがの』
 部屋のスピーカーから博士の声が聞こえる。
『大まかな座標を指定して飛ばすことはできるんじゃが、この放葉島(ほうばじま)から離れるほど転送地点のぶれは大きくなる。まあ今回は都内じゃから大丈夫じゃろうて』
 絵美は博士の説明を聞かずに装置に入った。
「博士、お願い」
『よし』
 装置のなかはライトアップされたように白く明るくなり始めた。絵美は驚く勝也を一瞥して、視線を正面に戻した。装置内が白一面になり霧が晴れると、絵美はいなかった。
『少しチャージをせにゃならんからすぐには転送できんが、お主も入っておけ』
 装置のなかはガラス張りのようで、試験管に入れられたような妙な印象だった。
『転送のときは暴れたりするんでないぞ。場合によってはお主の粒子が霧散して、二度と元の体に戻ることはありゃせんからの。フヒョッ』
 勝也はその異様な笑い声を、それほど気味悪く感じていないことに気づいた。
『よし、チャージが済んだわい。転送するぞい』
 足元から白い粒子が舞い上がる。それと同時に靴から順に足が消えていく。身じろぎすると背中が装置の壁に当たった。腿がなくなり腰が失せ、腕がなくなり胸が消えた。体が見えなくなった。


 視界は残っていたが、はたしてそこに自分の顔があるのかどうかもわからなかった。
 しばらく白に包まれていたが、次第に胸が見え始め、腕、腰、腿、足先と復元されていく。
 頭上から霧が晴れていくと、そこは高速道路の架橋下だった。
「こっちよ!」
 遠くから声がしたかと思えば、ビルの合間の道から絵美が呼んでいる。
 絵美は走り出し、勝也はそれを追う。意外と足が速く追いつけない。肩を並べるほどになると、息が切れていた。
「バスの到着予測地点から、少しずれているわ。走れば間に合う」
 絵美はケータイを手にその細い道路を抜けて、通りへ出た。その通りに沿って走ると、4車線の大通りに開けた。
「ここをもうすぐ通るはずよ」
 勝也はバスが来るのを待ったが、ふと疑問がよぎる。
「バスが来たとして、どうするんだ?」
 絵美はちらりと勝也を一瞥した。決まりが少し悪いようだ。
「私がフラグメントを使って、運転手を元の状態に解放できないか試してみるわ」
「フラグメント? よくわからないけど、できるのか? そんなことが」
「――できるかどうかじゃないわ。やるしかないのよ」
『来たぞ』
 絵美のケータイから博士の声がした。ケータイの画面にはその道路周辺の地図と赤と緑の点、そして博士の顔が映っていた。赤い点は凄いスピードで緑の点のある場所に近づいている。緑の点が自分たちの立っている場所で、赤い点がバスということだろうと推した。
 絵美はケータイをポケットに入れ、手を前にかざして交差させた。その手をバスが来るであろう方向へと向ける。
「なにをしてるんだ?」
「ジャマしないで。フラグメントを使うには集中しなければいけないの」
 遠くからブレーキの音が断続的に聞こえる。バスが他の車を追い越している音だろう。
 周囲の人々は、何人かがその音の異様なことを感じ取っている。だがほとんどはバスが来ようとしていることを知らないんだろう。ひょっとすると博士の情報網が早いだけで、速報にもなっていないかもしれない。
 勝也の目に、バスの頭が映った。
 バスは車の間を縫いながら、今にも倒れんばかりにゆらゆらと揺れている。その危うさを抱えながらスピードは保持している。
「おい、本当に大丈夫なのか?」
 絵美は答えない。段々とバスが近づいてくるのは、彼女の目にも見えていた。
(フラグメントが運転手に通じない……)
 彼女は運転手にブレーキだけを踏むように指示していた。しかしそれ以上の指令が運転手に届いているのだろう。彼女の思いは届いていない。
 絵美は腰を深く落とした。それと同時にこめかみに青筋が走り、目つきも鋭くなる。
 バスはスピードを少しばかり落とした。だがまだ相殺するまでには至らず、このままでは2人の前を通り過ぎてしまう。
 より深く、絵美は腰を落とす。目は血走り、偏頭痛に顔が歪む。
 2人の目の前にある中央分離帯の裂け目――大通りを横断する十字路との交差する場所――でなんとか止めないと、バスに追いつくことすらできないかもしれないと勝也は思った。
 その裂け目までにバスを止められなければ、転倒させるぐらいしか今、手はないと絵美は感じていた。そのときは一般人の被害は免れない。場合によっては彼女も巻き添えを食うかもしれない。
 ――小学校の子供たちと、この路上の一般人たち。どちらの命が重いかしら。
 邪な考えが去来する。それを振り払うために、彼女は眼球に力を迸らせた。
 絵美の視野に、バスの運転席が映る。それは想像ではなく、透過されたものが彼女の脳裏に確かに写像されていた。
 運転手の男の足はアクセルを踏み込んでいる。それをずらせてブレーキを踏ませるのは諦めるしかない。
 それは人の意志のベクトルを曲げることである。たとえフラグメントが強力であったとしても、それが難しいことであることに変わりはない。
 ベクトルを曲げることよりも簡単なことを、絵美は試みた。
 運転手の足に視線を集中する。
 彼女の血管が悲鳴を上げる。
 足の骨を透視する。
 眼球がピシリと軋んだ。
 骨の一転に視線を穿つ。
 運転手の足の骨にパキッと皹が入った。
「うあっ!」
 絵美は叫ぶと同時に、その場に倒れ込んだ。
 勝也が彼女に駆け寄ると、
 バスが空気を切りながら
 中央分離帯の裂け目を横切って
 反対車線に入り込んだ。
 勝也の眼前をバスが走り抜けた。
「どうした!」
 そういって絵美を抱きかかえながら、勝也は去っていくバスを悔しそうに睨みつけた。
 絵美の足が地面を引きずっている。明らかに折れていた。
「バスを追って」
 絵美は痛みに呻きながらいう。
「どうやって」
 勝也の冷たい声に、絵美は口をつぐんだ。その2人に突然、影が射した。勝也の胸のなかで絵美が空を仰ぐ。
 勝也が振り返ると、そこには羽のある女のコが飛んでいた。


「サチ!」
 その女のコは白いワンピースをはためかせ、天使のように見えた。
 彼女は足で勝也と絵美を掴んだ。
「ぐあっ!」
 勝也は痛みに声を上げた。サチの足は鳥のように鋭くなっていて、その爪先が2人の背中の肉に食い込んだ。痛くて勝也は暴れた。
「暴れないで! 落ちるわよ!」
 絵美の注意と共に、3人は空に大きく羽ばたいた。
 周囲の人々の驚く顔が眼下に見え、それがやがて小さく消えていく。
 自分の住む街を俯瞰で見るのは初めてだった。
 バスの通ってきた車線が混乱しているのが容易に見てとれた。そしてバスが離れていくのも見えた。
 ううっ、と絵美が小さく呻いた。足を押さえている。折れた部分からぷらぷらと揺れている。勝也の視線に、絵美が気づく。
「大丈夫よ。すぐに治るわ」
「折れてるんだろ。すぐに治るはずがない」
 絵美は強がって笑うと、「背中、痛くないでしょ」といった。見上げてサチの姿を確認する。おそらく彼女の爪は背中に食い込んだままなのだろう。だが勝也が動いてみても、背中が痛むことはなかった。
「私は傷の治癒を早めたり、痛覚を鈍らせることができるの。今は2人分の痛みを取り除いているから治癒が遅れているだけよ」
 勝也は納得して、バスの動向に注目した。おそらく絵美も話しながらだと治癒に集中できないだろう。
 バスはおそらくもうすぐで大通りから二車線の道路に入るだろう。そのままいくらか直進して脇道にそれれば小学校はすぐだ。
「バスに近づいてくれ」
 勝也はサチに呼びかけた。しかし見向きもせずに応じる気配もない。
「サチ、バスに近づいて。お願い」
 絵美がサチにいうと、加速しながら降下した。勝也は舌打ちした。
 ゆっくりと距離が縮まっていくのを感じながら、これは本物だと確信していた。博士や絵美のいっていたことも、敵と戦っているということも。勝也が事故に遭ったことも、あのバスを小学校へ仕向けた男がクソ野郎だということも、間違いないということだ。
 胸の奥から、沸々と熱い怒りが湧く。どうしてあのコたちを狙うんだ? なんのために狙うんだ? 溢れる疑問は苛立ちを加速させる。
 バスが交差点に差しかかろうとして、思考は遮られた。
「バスが曲がる前にドアを壊したい。近づけるか?」
「どう、チサ?」
 返答の代わりに降下し始めた。今はこのムカつく天使も不問としておこう。
 バスと同じ高さまで下りると、バスの後部に客が集まっているのが見えた。みんな怯えている。なかでも子供たちは震えているようだ。
 運転手は――涙を流していた。引きつった顔で前を見据えながら、ハンドルを握り締めている。意志とは関係なく操られる気分は、どんな感じだろう? 勝也にはわからなかった。
 後部のドアの枠に手をかけようとすると距離が離れた。何度か試みたが、掴む前に離れてしまう。
「なにやってんだよ、届かねえだろ!」
「あんたはドアを開けることさえできればいいのかもしれないけど、私とサチは生きて帰るのも目的のうちなのよ」
 勝也は絵美を一睨みしたが、文句はいわなかった。その時間が惜しい。
 むりやりに足を伸ばして蹴ろうとする。勝也は自分が日本人であることを――短足であることを――恨んだ。
「ドアを開けてどうするの。こんな速度じゃ降りれないわよ」
「次の、交差点で、曲がる、はずだ。そこで減速、するだろうから、タイミングはそこ、しかない」
 何度もドアを蹴りながら息を弾ませて勝也はいう。絵美はケータイを取り出し地図を見て、そういうことね、と呟く。
 踵に重い感触をつかむと同時に、折りたたみ式のドアが全開する。
「よしっ!」
 快哉を叫ぶ勝也に、絵美は皮肉っぽく笑った。
 絵美は目を閉じて、バスの後部に手を向ける。勝也は固まっている客に呼びかける。
「おい、あんたら! もうすぐバスが曲がるからそのときに飛び降りろ!」
 聞こえているのかいないのか、客は顔を見合わせたり戸惑ったりしている。
「時間がねえんだよ!」
「静かにして、集中できないわ」
「なにを――」
「黙って見てなさい」
 絵美がいうやいなや、サラリーマンふうの客が1人立ち上がった。そして後部のドアを通り過ぎた。
「なにやってんだよっ、オッサン」
 サラリーマンはそのまま前部のドアに差しかかると、ドアコックを捻ってドアを全開にした。
 それに従って、次々と客が立ち上がる。10人ほどの客が前後のドアにほぼ等分に分かれた。
 どうなってるんだよ、と勝也は言葉を洩らせた。
「もうすぐ曲がるぞ、吹っ飛ばされるなよ!」
 絵美はなにかをサチに呟いた。サチは加速するとバスから離れた。
 急ブレーキで後部のタイヤが滑り、
 騒音が轟く。
 女性客の甲高い悲鳴がつんざき、
 バスのテールが軽く中央分離帯にぶつかる。
「今だ!」
 勝也が叫び、客は一斉に飛び降りた。それは統率されていて無駄がなかった。
「やった! 全員降りられたぞ!」
 客は誰一人として車内に取り残されることなく、路上に転がっていた。それぞれが驚いて目を点にしている。
 バスは加速を再開し、二車線の道路を走り始める。勝也の目に、後部のドアにしがみつく人影が見えた。
 降りそびれた客がいるのかと焦ったが、近づいてみるとそれは絵美だった。


 絵美はバスのなかに入り込んで、とりあえずは安堵した。
 しかし足をついた途端に激痛が走り、床に転げた。骨折は完全には治癒していない。あまり足を使えば、また折れた状態に戻ってしまうだろう。
 客全員をフラグメントで操作するのは、無茶があった。かなり疲弊していた。その上、常に勝也の背中の痛みを除去していなければいけない。
(こんなところで……)
 絵美はため息をつくと立ち上がり、自分の背中と足から気を排除した。
 背中が痛んだ。シャツに開いた4つの穴――鳥の足跡――からは、血が流れ出している。歩く度に足が痛む。
 絵美は涎を拭った。痛みが――気持ちよかった。背筋が快楽に震える。
(こんなところで……感じてるわけにはいかない)
 運転席に辿りつくと、手すりにもたれて息をついた。運転手の男は、嗚咽を洩らしながら鼻水を垂らしている。絵美はそれを別段、汚いとは思わなかった。運転手にフラグメントを使ったときに、彼の恐怖と葛藤を感じ取っていたからだった。彼は死にたくはないと震えながらも、客にケガを負わせないよう、道路の車の人間に被害を与えぬようにハンドルを握っていた。もちろん敵のフラグメントのせいということもあるが、その心情に彼女は少なからず感銘していた。
「足を砕いちゃってごめんなさいね」
 運転手に謝りながら、その隣を見た。小さなスペースにはアタッシェケースが置いてある。運転席のすぐ後ろの座席に座って手を伸ばすと、ケースに手が届いた。絵美はケータイを取り出して、カメラでアタッシェケースを映した。
「博士、これは爆弾かしら。開けても大丈夫?」
『ふむ。開けんほうがいいじゃろう。そのなかに入っている可能性は高いの』
 絵美はゆっくりとシートの上にケースを置いた。
『他に危険そうなものがないか探してみてくれ。悪魔の証明じゃがの。ホヒョッ』
 ケータイを閉じることで笑い声を掻き消すと、頭を振って眩暈を振り切りながら、まったく、と零しながら腰を上げた。

 小学校では、給食の時間になっていた。
 3年4組では、児童たちが給食係が食事をもってくるのを今かと待ちわびていた。
 白い給仕服に身を包んだ子供が、1階の蛇口の前で手を洗っている。他のクラスの子供たちがステンレス製の使い古されてデコボコになった鍋を開けて、カレーの匂いに興奮したり、グリーンピースさえ入っていなければと悔しがっている。
 階段を下りてきた給仕服の子供たちが、一斉に手洗いを始める。
「手を洗ったらお鍋をもっていきましょうねえ」
 メガネをかけた40代とおぼしき女性の先生が、児童たちにいう。先生は鍋を触って熱さを確認して、こぼさない限りは大丈夫と判断した。
 その後ろで手を洗っていた少女が、宙を見上げた。
「あれ?」
 隣で泡をすすいでいた女のコが彼女の視線の先を覗く。
「どうかしたの、アケノちゃん?」
 三田明乃(みたあけの)は、不思議な気配を感じた。それは懐かしくあり、誰かの呼びかけのようでもあった。
「おにいちゃん?」
 明乃は呟くと、渡り廊下へ出て、そのまま校門へ向かった。隣にいた女のコは止めようとしたが遅く、先生にいおうかいうまいか戸惑った。
「ほら、ご飯のお鍋をもってね」
 先生は彼女に鍋の取っ手をひとつ受け渡すと、児童たちを連れて階段を上がり始める。女のコは校門のほうを振り返りながらも、列を乱さないようについていった。
 明乃は校門を出ると、二車線の道路を左右に見渡した。車の往来はない。いつも先生に「車には気をつけなさい」といわれていて従っていたため、車がいないことに首を傾げた。道路の向こう側は川が車線に沿って流れていて、さらにその先には家並みが連なっていた。道路の左はある程度まで見通せるものの車はやはり来ておらず、明乃は道路の上を右にとてとて、と歩いた。学校のフェンスをくるむように道路は曲がっていて、その先から来る車もないようだった。ときおり釣り人のいる大きな池にも人影はない。池にどころか、歩道にも人はいなかった。

 勝也からは、絵美がなにをしているのかよくわからなかった。ポケットに入れていたケータイが鳴る。取り出すと「博士」とディスプレイに書かれている。
『絵美は爆発物を探しておる。運転手も逃がさにゃならんしの。お主は彼女が失敗したときのフォローを頼む。これも小学校の児童たちのためじゃて』
 一方的に切られる会話に、その無神経さや巻き込まれた鬱陶しさ、勝手にケータイをいじくられたらしいという苛立ちが湧いてない交ぜになった。
 しかし児童たちのためだからしかたない。どうも博士の言動に操られているような怪しさを感じながらも、時間はないと感じていた。
 サチはバスから距離をとって上空で加速した。


 頬に傷のある男は、ビルの上からバスを見ていた。
 忌々しいヤツら。オレの嫌いなガキを守ろうとしているヤツら。
「反吐が出るぜ」
 視界を滑らせると小学校があった。小学校の前の二車線の道路は、小学校を境に右へ曲がっているため、バスが今の速度で走っていけばカーブを曲がりきれずに民家に突っ込むことになる。うまく小学校に突っ込ませるには、運転手にかけているフラグメントを瞬間的に協力にしてドリフトをさせればいい。
 要領としては、さっき交差点を曲がったときと同じだ。まさか客をすべて降ろすことができるとは思わなかったが、ヤツらも馬鹿ではないようだ。さっきのはブレーキングドリフトだったためにスピードを殺すことになってしまったが、次のドリフトはブレーキをかけずに勢いよく突っ込ませよう。向こうの女がバスに乗っているようだし、うまくいえば一石二鳥になるかもしれない。
 カーブの先に池があるのが気にかかるが、ドリフトに失敗してもあの池にバスが落ちることもないだろう。
 炎上し子供の悲鳴が上がる様を想像して、男は口角を上げた。

 上空で加速してどうフォローするか考える勝也の視野に、小学校が入った。おそらくもう1分も経たずにバスは小学校に着くに違いない。脳裏に、小学校に辿りつく前にバスを破壊できれば、という思いがよぎる。爆発してしまったときは周辺の住人が巻き込まれることになるだろうが、そんなことは知ったことじゃない。バスのなかの2人も灰になってしまうかもしれない。運転手はともかく、あの絵美という女はかわいそうではある。妙に歪んだ偏見から話しかけてきた人というのは久しぶりだったから。でも小学校に被害を与えないようにするにはしかたがない。
 勝也は右の掌を見た。しかし彼には力がなかった。方法はあっても、バスを破壊するだけの力なんてない。家とバイト先を行き来するだけの生活で、筋肉は萎れている。拳を強く握った。
『爆弾はアタッシェケースだけみたい』
 開いたままにしていたケータイから絵美の声が洩れる。
『そうか。ならそれを解体することになるが、できるかの』
『もう1分もないわよね。無理だわ』
『そうか、ウヒョッ』
『どこかケースを投げ捨てられる場所はないの?』
『ないのう』
 どこか間延びした2人の会話に、勝也の苛立ちは募った。歯軋りをして前を向いた。
 その目が小学校前の道路にある人影を捉えた。
 瞬間的には、それが一般人であると思って「邪魔だな」程度にしか思わなかった。しかし人影の小ささに子供であることに気づいて目を瞠(みは)った。
「校門の前へ飛べ、飛べっ!」
 勝也の言葉にサチは従わなかった。
 しかし不穏な雰囲気を察知して、絵美はバスのフロントガラスを通して校門を睨んだ。
「サチ、従って!」
 すぐに状況を理解して叫ぶ絵美に、サチは急降下する。校門までの距離はあまりない。
 ビルの上から見ていた男は、サチの動向から校門の少女に気づいた。舌打ちをして、手をバスの方向にかざす。
 バスがさらに加速して、絵美は倒れた。折れた足をしたたかに打って声にならない悲鳴を上げた。
 明乃が校内に戻ろうとして小走りすると、給仕服のポケットから小汚いキツネの人形が落ちた。
 サチとバスのスピードは拮抗していて、勝也は叫んだ。
 その声に気づいた明乃は、キツネの人形に手を伸ばしたまま後ろを振り返った。
 逃げられる、と勝也は喜びかけたが、明乃は逃げる前に人形をとろうとして転んだ。
 ――間に合わない。
 勝也が体を思い切り引くと、
 ブチュッという音とともに背中の肉が抉(えぐ)れた。
 明乃を歩道に投げることもできず、
 勝也は明乃を背にトラックに向かって
 手を広げた。
 絵美は自分と運転手にフラグメントをかけ、
 トラックと勝也は衝突した。
 衝撃でフロントガラスが割れ、
 絵美と運転手は車外に放り投げられた。
 バスはスピードを殺しながらも
 タイヤを滑らせている。
 サチに受け止められた絵美と運転手は
 バスの後輪が浮いていくのを見た。
 勝也の体は鍛え上げられたそれになっていた。
 その腕に抱えられて前輪が浮き、
 バスはまっすぐ縦になった。
 勝也は怒号すると
 バスを投げた。
 その放物線は校舎の上を過ぎて
 道路で一度跳ねて
 池に落ちた。
 車内の空気が水上に零れる音を
 爆発音が掻き消した。

 小学校の窓から先生や子供たちが顔を覗かせる。家並みからも、いくつも顔だけが出てくる。
 ゆっくりと地面にサチは下降し、絵美と運転手を降ろした。
 勝也の体は隆々とした筋肉で少し大きくなっていて、背中からはドクドクと血が流れ出ていたが、やがて風船のしぼむように小さくなり元の痩躯に戻った。目を開けた明乃の前には、血と汗にまみれて穴のあいた細い背中があった。朦々と上がる煙とバスの車体が燻る音を気にもせず、明乃は汚らしい背中をずっと見つめていた。



第01章←[TOP]思いは走れど、筆は走らず。倒錯偏愛パラフィリアン→第03章
inserted by FC2 system