02話 「球体 − train」


 無機質な球状の部屋で、絵美はシャドウトレーニングを行っていた。ヴァーチャルエネミーと戦闘するシステムも整ってはいるが、今日はする気にはなれなかった。
 しなやかに動く体はとても柔らかく、たとえ着ているものがタンクトップとスパッツであっても、まるで舞を踊っているかのようだった。
 新しく来た男。勝也といったっけ。
 鄙弱(ひよわ)そうな体つきだった。たぶんあの痩躯、サチは嫌いだろう。
 前方の敵がジャブとストレートのコンビネーションを打ってくると想定する。一発めの左ジャブを弾いて落とし、右ストレートをかわしざまにこちらも右ストレートでカウンターを決める。
 サチが彼を好きになるかどうかとは別に、マルチフォビアンたちと戦っていけるのか、不安だった。戦闘要員としては、まず膂力(りょりょく)が心配だ。筋肉の力は破壊力、耐久力、持久力すべてに通じる。しかし彼にはそれが期待できなかった。
 背後から不意の攻撃がくる。しかし絵美はとっさにそれを避け、蹴りで吹っ飛ばした。優雅にポニーテールが流れる。空想上の敵がそのダメージから起き上がることはできないだろう。
 それにあの男……たしかペドフィリアンといったっけ。ペドフィリアといえば小児性愛を指す言葉だ。博士がそう名づけたということは、彼がペドフィリアであることは間違いない。となると、あいつが黙っていないだろう。不安を抱かずにはいられなかった。
 次々と襲いかかってくる敵を倒しながら、彼女は考え続ける。優にその数は20を超えている。
 それに勝也がフラグメントを使えるのかもわからない。あれだけは素質によるものだ。膂力というものは基礎トレーニングを行えば誰でも強化できる。それとは違い、フラグメントは素質のないものが手に入れる術はない。あの男がフラグメントを使えないときはおそらく――
 その瞬間、絵美の頭上から多数の黒い影が現れた。
 それらは彼女を取り囲み、一斉に飛びかかってきた。
 絵美は目を見開いて、強く念じた。まるでパントマイムでもするかのように、影たちは絵美に近づくことができないでいる。
 絵美は青筋を額に浮かべながら、叫んだ。すると今まであった壁が爆発したかのように影たちは吹き飛んだ。そして球状に窪んだ壁で跳ね返り、地面に落ちた。すると影は跡形もなくすべて消えた。
「趣味が悪いわね。人のトレーニングを覗くなんて」
『お主に助力できればと思うてな』
 壁の一面が横長の長方形に切り取られてスライドした。そこにはガラスが張られていて、博士が笑っていた。
「なにが助力よ。タチの悪いイタズラじゃない」
『いやなに、不意打ちというものは本人の想定ではできんもんじゃて』
 絵美は呆れながら、壁に歩いていく。すると今度は縦長に壁がスライドして、自動ドアが現れた。
 ドアを抜けると、小さな個室になっている。ドアがしっかりと閉じられたのを確認すると、絵美は横にあるスイッチを押した。するとプシュッという音と共に室内の空気が瞬時に吸い取られ、彼女は息を止めて目を閉じた。別に本当に空気がなくなっているのではない。これは汗を揮発させるための空気循環と同じようなものであり、服が吸った汗も乾かすことができる。そしてすぐにデオドラント用の微粒子が吹きかけられる。
 それに耐える間、絵美は我慢できずに息を止め、目を閉じてしまう。空気がなくなる感覚は嫌いだったし、デオドラントの微粒子を肺に取り込むのも、眼球についてしまうのも嫌だった。
 それはとても感覚的なもので、器質的でない。除菌、滅菌と叫ぶ世の中と同じで、そんなことが実現できないことはわかっている。細菌をすべて殺すこともできないし、そうしてしまえば逆に人間の菌への耐性がなくなってしまう。それが論理的にはわかっていても、心では理解できない。この個室を出るときはいつも、彼女は自分の心の弱さを知る。
 前方のドアが開き、長椅子のある休憩室に出る。長椅子の上に置いておいたペットボトルの隣に座る。
「どうじゃ、フラグメントの調子は」
 別のドアから現れた博士が、悪びれもせずにいう。絵美はすました顔で返す。
「とくに発動が遅いということもなく、威力が想定より減退してしまうということもない。かといって不随意に暴発したり、急激に体力を奪うような力の爆発もない」
「ふむ。というと」
「いたって普通ね」
「なるほど」
 絵美は足を組んだ。おそらく健全な青年であれば生唾を飲むような光景であるだろうが、博士は見向きもしない。彼女はそうと知っているからこそ、そうすることができた。たとえペドフィリアだとわかっていても、勝也の前ではできないだろう。心で理解できるまでは。
「まあ、普通でいいんじゃよ、今は。然るべきときに然るべき力を発することができる。これほど素晴らしいことはありゃせん。フラグメントはお主らインコンプリートには備わっておる能力じゃが、非常に繊細じゃ。まさにお主らの心のようにな」
 絵美は眉を片方上げて博士を見、そして目を閉じた。
 インコンプリート――不完全なる者。博士は彼女たちをそう呼ぶ。その真意はわからない。だが絵美自身は合点している。マゾフィリアンとして彼女は、自身が非常に脆く、憐れな存在であると確信しているからだ。だから勝也のことも、少なからず気になっている。
 もしあいつがフラグメントを使えなければ、おそらく殺される――



第01話←[TOP]思いは走れど、筆は走らず。倒錯偏愛パラフィリアン→第03話

inserted by FC2 system