03話「夢 - illusion」


 勝也は雑然とした基地でベッドの上に横たわっていた。彼は事故のことを反芻していた。
 トラックにはねられて、死んだものと思っていた。死にたくはないけれど、死ぬんだろうと思っていた。けれど今、生きている。これは不幸中の幸いなのかもしれない。だとすれば、一度死んだものと考えて、彼女――絵美の言葉に従うのもいいかもしれない
『あなたがこのパラフィリアンに与するもしないも自由よ。ただどちらにせよ、あいつらは人を傷つけることをやめないわ。そしてヤツらは、あなたの好きな子供たちを傷つけることも厭わない』
 子供たちを傷つける――
 そんなことは許せるはずがない。赦していいはずがない。
 だけど、絵美という名の女のコや博士と呼ばれていた老人の言葉が真実だとは思えない。
 左目のガーゼをとる。寝台から降りる。どこにも痛痒はない。なんに使うのかもわからない薬品の棚の脇に、アメリカ映画で見るような汚らしい洗面台があった。
 洗面台の鏡は黒ずんでいて、大して効いていない電灯の光を溜まった水に鈍く反射している。
 鏡には、贅肉とは無縁の痩躯が映っていた。
 事故ではねられた後、確か顔を地面にぶつけたはずだった。そのまま数メートルアスファルトを滑ったのも憶えている。しかし勝也の顔は、事故以前となんら変わった点はなかった。骨折もしていたと思ったが、体を動かしてもどこも痛まない。博士の手腕なのかもしれない。そう考えれば感謝の思いが湧いてくる。
 でも――
 勝也は疑問を抱いた。あの事故の記憶は本当なのか?
 この施設、あの博士という老人、一言で表すなら不気味だ。21世紀とは思えない。それは汗と埃の混じった前時代的な嘘くさい臭いにも、現代医学や近代思想を超越した近未来的な希望にも感じられる。だがどちらも、容易に信じられるものではない。だがそのどちらからも、他者の脳をコントロールして記憶さえも操ることのできる技術を垣間見えた。
 あの事故が嘘なら、顔に傷がないのは当然だ。
 でもあの事故が本当なら、博士の手腕は恐るべきものだということだろう。
 勝也は、どちらを信じていいかわからなくなった。顔を両手で掴むように、強く叩く。鋭い音が響いた。苛立ちは消えず、痛かった。
 舌打ちをして鏡の前を離れると、辺りを見回した。天井はガラス張りなのか、晴れた空が覗いている。陽が照っているからか、それほど寒くはない。棚やラックで間仕切りされていて、倉庫は二分されている。こちら側には、寝台や薬、金属製の医療器具などが置いてあり、洗面台の隣には博士たちが消えたドアがある。
 勝也は間仕切りの隙間を抜けて、隣に出た。
 そこには驚くほど、なにもなかった。
 地面には剥き出しのアスファルトがあり、壁には錆びた鉄の壁があるだけで窓すらない。
 背後で大きな音がした。振り返ると、またなにもなかった。
 間仕切りを戻ると、なにもかもがなくなっていた。寝台も薬棚も洗面台もドアも。
 勝也は仕切りの間に立ち、左見右見(とみこうみ)した。なんら変わることのない「なにもない」という空間がそこにあった。
 愈々、夢なのかもしれない。



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