06話「反動 - reflection」


 視界は残っていたが、はたしてそこに自分の顔があるのかどうかもわからなかった。
 しばらく白に包まれていたが、次第に胸が見え始め、腕、腰、腿、足先と復元されていく。
 頭上から霧が晴れていくと、そこは高速道路の架橋下だった。
「こっちよ!」
 遠くから声がしたかと思えば、ビルの合間の道から絵美が呼んでいる。
 絵美は走り出し、勝也はそれを追う。意外と足が速く追いつけない。肩を並べるほどになると、息が切れていた。
「バスの到着予測地点から、少しずれているわ。走れば間に合う」
 絵美はケータイを手にその細い道路を抜けて、通りへ出た。その通りに沿って走ると、4車線の大通りに開けた。
「ここをもうすぐ通るはずよ」
 勝也はバスが来るのを待ったが、ふと疑問がよぎる。
「バスが来たとして、どうするんだ?」
 絵美はちらりと勝也を一瞥した。決まりが少し悪いようだ。
「私がフラグメントを使って、運転手を元の状態に解放できないか試してみるわ」
「フラグメント? よくわからないけど、できるのか? そんなことが」
「――できるかどうかじゃないわ。やるしかないのよ」
『来たぞ』
 絵美のケータイから博士の声がした。ケータイの画面にはその道路周辺の地図と赤と緑の点、そして博士の顔が映っていた。赤い点は凄いスピードで緑の点のある場所に近づいている。緑の点が自分たちの立っている場所で、赤い点がバスということだろうと推した。
 絵美はケータイをポケットに入れ、手を前にかざして交差させた。その手をバスが来るであろう方向へと向ける。
「なにをしてるんだ?」
「ジャマしないで。フラグメントを使うには集中しなければいけないの」
 遠くからブレーキの音が断続的に聞こえる。バスが他の車を追い越している音だろう。
 周囲の人々は、何人かがその音の異様なことを感じ取っている。だがほとんどはバスが来ようとしていることを知らないんだろう。ひょっとすると博士の情報網が早いだけで、速報にもなっていないかもしれない。
 勝也の目に、バスの頭が映った。
 バスは車の間を縫いながら、今にも倒れんばかりにゆらゆらと揺れている。その危うさを抱えながらスピードは保持している。
「おい、本当に大丈夫なのか?」
 絵美は答えない。段々とバスが近づいてくるのは、彼女の目にも見えていた。
(フラグメントが運転手に通じない……)
 彼女は運転手にブレーキだけを踏むように指示していた。しかしそれ以上の指令が運転手に届いているのだろう。彼女の思いは届いていない。
 絵美は腰を深く落とした。それと同時にこめかみに青筋が走り、目つきも鋭くなる。
 バスはスピードを少しばかり落とした。だがまだ相殺するまでには至らず、このままでは2人の前を通り過ぎてしまう。
 より深く、絵美は腰を落とす。目は血走り、偏頭痛に顔が歪む。
 2人の目の前にある中央分離帯の裂け目――大通りを横断する十字路との交差する場所――でなんとか止めないと、バスに追いつくことすらできないかもしれないと勝也は思った。
 その裂け目までにバスを止められなければ、転倒させるぐらいしか今、手はないと絵美は感じていた。そのときは一般人の被害は免れない。場合によっては彼女も巻き添えを食うかもしれない。
 ――小学校の子供たちと、この路上の一般人たち。どちらの命が重いかしら。
 邪な考えが去来する。それを振り払うために、彼女は眼球に力を迸らせた。
 絵美の視野に、バスの運転席が映る。それは想像ではなく、透過されたものが彼女の脳裏に確かに写像されていた。
 運転手の男の足はアクセルを踏み込んでいる。それをずらせてブレーキを踏ませるのは諦めるしかない。
 それは人の意志のベクトルを曲げることである。たとえフラグメントが強力であったとしても、それが難しいことであることに変わりはない。
 ベクトルを曲げることよりも簡単なことを、絵美は試みた。
 運転手の足に視線を集中する。
 彼女の血管が悲鳴を上げる。
 足の骨を透視する。
 眼球がピシリと軋んだ。
 骨の一転に視線を穿つ。
 運転手の足の骨にパキッと皹が入った。
「うあっ!」
 絵美は叫ぶと同時に、その場に倒れ込んだ。
 勝也が彼女に駆け寄ると、
 バスが空気を切りながら
 中央分離帯の裂け目を横切って
 反対車線に入り込んだ。
 勝也の眼前をバスが走り抜けた。
「どうした!」
 そういって絵美を抱きかかえながら、勝也は去っていくバスを悔しそうに睨みつけた。
 絵美の足が地面を引きずっている。明らかに折れていた。
「バスを追って」
 絵美は痛みに呻きながらいう。
「どうやって」
 勝也の冷たい声に、絵美は口をつぐんだ。その2人に突然、影が射した。勝也の胸のなかで絵美が空を仰ぐ。
 勝也が振り返ると、そこには羽のある女のコが飛んでいた。



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