08話「快楽 - extraordinary」


 絵美はバスのなかに入り込んで、とりあえずは安堵した。
 しかし足をついた途端に激痛が走り、床に転げた。骨折は完全には治癒していない。あまり足を使えば、また折れた状態に戻ってしまうだろう。
 客全員をフラグメントで操作するのは、無茶があった。かなり疲弊していた。その上、常に勝也の背中の痛みを除去していなければいけない。
(こんなところで……)
 絵美はため息をつくと立ち上がり、自分の背中と足から気を排除した。
 背中が痛んだ。シャツに開いた4つの穴――鳥の足跡――からは、血が流れ出している。歩く度に足が痛む。
 絵美は涎を拭った。痛みが――気持ちよかった。背筋が快楽に震える。
(こんなところで……感じてるわけにはいかない)
 運転席に辿りつくと、手すりにもたれて息をついた。運転手の男は、嗚咽を洩らしながら鼻水を垂らしている。絵美はそれを別段、汚いとは思わなかった。運転手にフラグメントを使ったときに、彼の恐怖と葛藤を感じ取っていたからだった。彼は死にたくはないと震えながらも、客にケガを負わせないよう、道路の車の人間に被害を与えぬようにハンドルを握っていた。もちろん敵のフラグメントのせいということもあるが、その心情に彼女は少なからず感銘していた。
「足を砕いちゃってごめんなさいね」
 運転手に謝りながら、その隣を見た。小さなスペースにはアタッシェケースが置いてある。運転席のすぐ後ろの座席に座って手を伸ばすと、ケースに手が届いた。絵美はケータイを取り出して、カメラでアタッシェケースを映した。
「博士、これは爆弾かしら。開けても大丈夫?」
『ふむ。開けんほうがいいじゃろう。そのなかに入っている可能性は高いの』
 絵美はゆっくりとシートの上にケースを置いた。
『他に危険そうなものがないか探してみてくれ。悪魔の証明じゃがの。ホヒョッ』
 ケータイを閉じることで笑い声を掻き消すと、頭を振って眩暈を振り切りながら、まったく、と零しながら腰を上げた。

 小学校では、給食の時間になっていた。
 3年4組では、児童たちが給食係が食事をもってくるのを今かと待ちわびていた。
 白い給仕服に身を包んだ子供が、1階の蛇口の前で手を洗っている。他のクラスの子供たちがステンレス製の使い古されてデコボコになった鍋を開けて、カレーの匂いに興奮したり、グリーンピースさえ入っていなければと悔しがっている。
 階段を下りてきた給仕服の子供たちが、一斉に手洗いを始める。
「手を洗ったらお鍋をもっていきましょうねえ」
 メガネをかけた40代とおぼしき女性の先生が、児童たちにいう。先生は鍋を触って熱さを確認して、こぼさない限りは大丈夫と判断した。
 その後ろで手を洗っていた少女が、宙を見上げた。
「あれ?」
 隣で泡をすすいでいた女のコが彼女の視線の先を覗く。
「どうかしたの、アケノちゃん?」
 三田明乃(みたあけの)は、不思議な気配を感じた。それは懐かしくあり、誰かの呼びかけのようでもあった。
「おにいちゃん?」
 明乃は呟くと、渡り廊下へ出て、そのまま校門へ向かった。隣にいた女のコは止めようとしたが遅く、先生にいおうかいうまいか戸惑った。
「ほら、ご飯のお鍋をもってね」
 先生は彼女に鍋の取っ手をひとつ受け渡すと、児童たちを連れて階段を上がり始める。女のコは校門のほうを振り返りながらも、列を乱さないようについていった。
 明乃は校門を出ると、二車線の道路を左右に見渡した。車の往来はない。いつも先生に「車には気をつけなさい」といわれていて従っていたため、車がいないことに首を傾げた。道路の向こう側は川が車線に沿って流れていて、さらにその先には家並みが連なっていた。道路の左はある程度まで見通せるものの車はやはり来ておらず、明乃は道路の上を右にとてとて、と歩いた。学校のフェンスをくるむように道路は曲がっていて、その先から来る車もないようだった。ときおり釣り人のいる大きな池にも人影はない。池にどころか、歩道にも人はいなかった。

 勝也からは、絵美がなにをしているのかよくわからなかった。ポケットに入れていたケータイが鳴る。取り出すと「博士」とディスプレイに書かれている。
『絵美は爆発物を探しておる。運転手も逃がさにゃならんしの。お主は彼女が失敗したときのフォローを頼む。これも小学校の児童たちのためじゃて』
 一方的に切られる会話に、その無神経さや巻き込まれた鬱陶しさ、勝手にケータイをいじくられたらしいという苛立ちが湧いてない交ぜになった。
 しかし児童たちのためだからしかたない。どうも博士の言動に操られているような怪しさを感じながらも、時間はないと感じていた。
 サチはバスから距離をとって上空で加速した。



第07話←[TOP]思いは走れど、筆は走らず。倒錯偏愛パラフィリアン→第09話

inserted by FC2 system