09話「膂力 - awakening」


 頬に傷のある男は、ビルの上からバスを見ていた。
 忌々しいヤツら。オレの嫌いなガキを守ろうとしているヤツら。
「反吐が出るぜ」
 視界を滑らせると小学校があった。小学校の前の二車線の道路は、小学校を境に右へ曲がっているため、バスが今の速度で走っていけばカーブを曲がりきれずに民家に突っ込むことになる。うまく小学校に突っ込ませるには、運転手にかけているフラグメントを瞬間的に協力にしてドリフトをさせればいい。
 要領としては、さっき交差点を曲がったときと同じだ。まさか客をすべて降ろすことができるとは思わなかったが、ヤツらも馬鹿ではないようだ。さっきのはブレーキングドリフトだったためにスピードを殺すことになってしまったが、次のドリフトはブレーキをかけずに勢いよく突っ込ませよう。向こうの女がバスに乗っているようだし、うまくいえば一石二鳥になるかもしれない。
 カーブの先に池があるのが気にかかるが、ドリフトに失敗してもあの池にバスが落ちることもないだろう。
 炎上し子供の悲鳴が上がる様を想像して、男は口角を上げた。

 上空で加速してどうフォローするか考える勝也の視野に、小学校が入った。おそらくもう1分も経たずにバスは小学校に着くに違いない。脳裏に、小学校に辿りつく前にバスを破壊できれば、という思いがよぎる。爆発してしまったときは周辺の住人が巻き込まれることになるだろうが、そんなことは知ったことじゃない。バスのなかの2人も灰になってしまうかもしれない。運転手はともかく、あの絵美という女はかわいそうではある。妙に歪んだ偏見から話しかけてきた人というのは久しぶりだったから。でも小学校に被害を与えないようにするにはしかたがない。
 勝也は右の掌を見た。しかし彼には力がなかった。方法はあっても、バスを破壊するだけの力なんてない。家とバイト先を行き来するだけの生活で、筋肉は萎れている。拳を強く握った。
『爆弾はアタッシェケースだけみたい』
 開いたままにしていたケータイから絵美の声が洩れる。
『そうか。ならそれを解体することになるが、できるかの』
『もう1分もないわよね。無理だわ』
『そうか、ウヒョッ』
『どこかケースを投げ捨てられる場所はないの?』
『ないのう』
 どこか間延びした2人の会話に、勝也の苛立ちは募った。歯軋りをして前を向いた。
 その目が小学校前の道路にある人影を捉えた。
 瞬間的には、それが一般人であると思って「邪魔だな」程度にしか思わなかった。しかし人影の小ささに子供であることに気づいて目を瞠(みは)った。
「校門の前へ飛べ、飛べっ!」
 勝也の言葉にサチは従わなかった。
 しかし不穏な雰囲気を察知して、絵美はバスのフロントガラスを通して校門を睨んだ。
「サチ、従って!」
 すぐに状況を理解して叫ぶ絵美に、サチは急降下する。校門までの距離はあまりない。
 ビルの上から見ていた男は、サチの動向から校門の少女に気づいた。舌打ちをして、手をバスの方向にかざす。
 バスがさらに加速して、絵美は倒れた。折れた足をしたたかに打って声にならない悲鳴を上げた。
 明乃が校内に戻ろうとして小走りすると、給仕服のポケットから小汚いキツネの人形が落ちた。
 サチとバスのスピードは拮抗していて、勝也は叫んだ。
 その声に気づいた明乃は、キツネの人形に手を伸ばしたまま後ろを振り返った。
 逃げられる、と勝也は喜びかけたが、明乃は逃げる前に人形をとろうとして転んだ。
 ――間に合わない。
 勝也が体を思い切り引くと、
 ブチュッという音とともに背中の肉が抉(えぐ)れた。
 明乃を歩道に投げることもできず、
 勝也は明乃を背にトラックに向かって
 手を広げた。
 絵美は自分と運転手にフラグメントをかけ、
 トラックと勝也は衝突した。
 衝撃でフロントガラスが割れ、
 絵美と運転手は車外に放り投げられた。
 バスはスピードを殺しながらも
 タイヤを滑らせている。
 サチに受け止められた絵美と運転手は
 バスの後輪が浮いていくのを見た。
 勝也の体は鍛え上げられたそれになっていた。
 その腕に抱えられて前輪が浮き、
 バスはまっすぐ縦になった。
 勝也は怒号すると
 バスを投げた。
 その放物線は校舎の上を過ぎて
 道路で一度跳ねて
 池に落ちた。
 車内の空気が水上に零れる音を
 爆発音が掻き消した。

 小学校の窓から先生や子供たちが顔を覗かせる。家並みからも、いくつも顔だけが出てくる。
 ゆっくりと地面にサチは下降し、絵美と運転手を降ろした。
 勝也の体は隆々とした筋肉で少し大きくなっていて、背中からはドクドクと血が流れ出ていたが、やがて風船のしぼむように小さくなり元の痩躯に戻った。目を開けた明乃の前には、血と汗にまみれて穴のあいた細い背中があった。朦々と上がる煙とバスの車体が燻る音を気にもせず、明乃は汚らしい背中をずっと見つめていた。



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