03章「夢と戦いの狭間」

 勝也は目を覚ました。
 そこは白い小部屋で、彼は白いベッドに横たわっていた。開かれた窓からは風が吹き込み、カーテンが揺れている。空は青く、天気はいいようだ。白い雲はのんきで、小学校の子供たちは元気に遊んでいることだろう。早く家に帰って、望遠鏡を覗きたい。
 ――どこから夢だったんだろう?
 とてもだるい。体中が痛い。バイトに行く途中にトラックに轢かれた後からだろうか。いや、それ以前かもしれない。そういえば轢かれたときの骨折を治療するギプスもない。酷い夢を見ていた。いやに疲れた。好きなものが傷つくのを目の当たりにするだとか、それを防がなければいけないとか、そんな重い荷物は肩に背負えない。平和なのが一番だ。
「あら、起きたのね。おはよう」
 病室のドアを開いて入ってきたのは、絵美だった。Tシャツにプリーツのスカートをはいている。
「けっこう長く寝てたから、疲れたでしょう」
 絵美はベッドの隣の丸椅子に腰をかける。痛みが増した気がした。
「まだケガは完治してないけど、じきによくなるから安心して」
 勝也は絵美の顔を見なかった。
「……いったいどうなってるんだ」
「あら。バスが爆発した後のこと、聞きたいの?」
 絵美は勘違いしたまま、窓縁に腕を置いて外を眺めた。
「今回は一般人の被害は、ほぼ皆無といえるわ。もちろんバスが暴走していたときに多少の接触はあっただろうし、その点については言及することは難しいけど。確認できた被害は、バスの運転手が足を複雑骨折したことと、小学校脇の池でバスが爆発しちゃったことかしら。バスの爆発は誰かがバスジャックして誤って池に飛び込んで爆発したことになってるわ」
 勝也は頭を抱えながら、やおら髪を掻きむしり始めた。節々が軋んだが無視する。
「お風呂に入ってないから痒いでしょ?」
 まるで勝也の神経を逆なでするように絵美は小さく笑った。
「おちょくってるのかい……?」
 絵美は小首を傾げる。ため息をついて勝也は緩慢に首を横に振った。
「運転手の骨折にはフラグメントをかけておいたし、然(しか)るべき場所で然るべき処置をしてもらってるから大丈夫」
「然るべき場所?」
 勝也は観念して訊ねた。
「ええ、病院よ」
「ここは病院じゃないのかい?」
 絵美は片眉を上げた。幾分か勝也の口調が戦闘時より和らいでいるのに気づいた。
「もちろん。ESP研究所、放葉島支所よ」
 錆色の看板が、勝也の脳裏に浮かぶ。
「戻ってきちゃったのか……」
「当然よ。あなたはパラフィリアンの一員として認定されたんだから」
「認定? ふざけないでくれよ……」
 ふざけてないわよ、と絵美はいって立ち上がった。
「もちろんあなたがパラフィリアンの一員として、ペドフィリアンとして私たちと戦っていくのが嫌だというのなら強制はしないわ。そのときは誰が傷つけられようと、あなたは指をくわえてみているだけになるけどね。たとえ子供が傷つけられようと、殺されようと」
 見上げた彼女の瞳は、挑戦するようにも嘲笑うようにも見えた。
「……まだどうするべきか判断がつかない。当然だろう? 子供が傷つけられるのは見たくないけど、キミや博士やサチがどういった人間で本当に信用できるのかわからないんだから」
 それもそうね、と絵美は肩をすくめる。
「じゃ早速、私たちが信用できる人間かどうかってのを確認しにいきましょう」
 そういいながらドアを指す。呆れながら身を起こすと、肌とカバーが直接すれる感覚に上半身が裸であることに気づいた。それを見ても絵美は恥らうどころか、さっさとしろと目で促した。ベッドの傍らを見るとTシャツがかけてあった。それを着ると2人は個室から出た。

 廊下の窓ガラスから外を見ると、3階であることがわかった。戦いに出る前に廊下を走ったときはゆっくり見る時間がなかったが、思った以上に殺風景だ。草木を越えて海がある。あとは空だけ。研究所内も白く長い廊下があるのみで、病院といわれれば信じただろうし、学校だと教えられれば疑わなかっただろう。
 聞こうか聞くまいか逡巡した挙句、口を開いた。
「あの女のコはどうなったんだい?」
「どっちの?」
「……どっち? どっちもこっちもないだろう」
 苛立つ勝也を見て、煽るような笑いを浮かべた。
「あなたは、もう2人の女の子を助けてるのよ」
 その笑いを、半ば呆けたように見ていた。実感が湧かない。当然だ、夢だと思っていたぐらいなんだから。
「最初に助けた女のコは、姓名も所在もわからないわ。あのときは救急車で病院に搬入される前にあなたを回収することが最優先だったから。2人めの女のコは、三田明乃(みたあけの)。小学二年生、8歳。あなたのおかげで無傷で済んだわ。事件後は定例通りに記憶を消して釈放」
「記憶を消してぇ?」
 ドアを開けると絵美は眉を上げて促した。訝しみながらも、勝也は室内に入った。
 そこはこの前にも来たコンピュータのある部屋だった。やはり博士はモニタの前でたくさんのキーを叩いている。
「博士は他人の記憶を操ることができるのよ」
 声に気づいて、博士が椅子をくるりと回して振り返る。
「これまでもマルチフォビアンたちは数々の事件を起こしてきたが、その尻拭いは必ず被害者たちの記憶を消すことに終わるんじゃ。あやつらは自らの尻をろくに拭けんらしゅうて、わしらが後始末をせにゃならん。先日のように派手に動き回れば人々の知るところとなるは必然じゃ。しからばインコンプリートの存在が明らかになるも必然じゃて。そうならばフラグメントの研究もおちおちしてられん。見世物になるのが関の山じゃ」
「お、おい。ちょっと待ってくれよ。なんだい、その……インなんたらとかフラなんたらってのは」
「インコンプリートとフラグメントよ。インコンプリートっていうのは、私やサチやあなたのこと。フラグメントという能力を使える人間の総称。私がバスの運転手の足を破壊したり、サチが翼をもつことができたり、あなたがバスを止めるほどの筋力を手に入れられる能力――それがフラグメントよ」
 勝也は理解をしようと頭を回転させるが、うまくいかずに言葉がくるくる行き来するだけだった。
「わけわかんない」
「どこがわからないのよ。こんなに親切に説明してるのに」
「なにがわからないのかすらわからない」
 匙を投げて絵美は掌をヒラヒラとさせた。
「マルチフォビアンたちはフラグメントを使って悪さをしとる。先日のペドフォビアンもそうじゃ。フラグメントに対応するには常人では無理じゃ。じゃからこちらも絵美やサチなどのパラフィリアンで応戦しとるわけじゃ」
「つまり一般人はそのフラグメントってヤツを使えないわけ?」
「ふむ、基本的にはそうじゃな。フラグメントはまだ研究過程じゃて解明されとらん未知の領域が多い。いったいどれくらい種類があるのかも見当がついとらん」
「今わかってる……えっと」
「フラグメント」
 絵美が助け舟を出す。
「ありがとう。そのフラグメントで、今わかってるものはどんなのがあるんだい?」
「まずは基本的なフラグメントじゃな。これは念力のようなもので、インコンプリートなら誰しも使えるもんじゃ。じゃがサチの翼のような能力は他人が真似することはできん。それにどうも1人には念力ともう1つなにか別の能力をもつようじゃ。サチならば翼、絵美ならば感応、お主なら肉体強化というふうにな」
「感応? 肉体強化?」
 勝也は絵美を見た。
「絵美の感応という能力は、他人からは見えにくいものなんじゃよ。絵美は念力を与える際に、多少ならば感情を操作することもできる。逆もしかりじゃ」
「逆ってのは?」
「お主も見たじゃろう、戦いの最中に絵美が足を折ったことじゃ。あれはバスの運転手にフラグメントを使おうとして、それが反動として絵美に返ってきたからなんじゃ」
 絵美は顔を背けた。少し耳が赤い気がする。
「ただしこれは絵美だけに限らずサチでもお主でもペドフィリアンでも怒り得ることじゃ。じゃからフラグメントは濫用するべきではない、というのがわしの持論じゃ。まあ、絵美の能力は他の者よりも相手の感情を操作できる確率が高く、感応を受ける確率も高い。お主らよりもその才に長けとるわけじゃな」
「ふうん、じゃあのサチってコの翼もフラグメントなんだ」
「そうじゃな。厳密には翼が、ではないがの。サチのは『肉体変容』じゃ。そもそも肩甲骨は翼の名残りじゃともいわれるが、いわばサチはその時代を逆流させて肩に翼を生えさせたわけじゃ。別に肩でなくとも翼でなくともいい。サチが強く望めば変容するんじゃ」
 翼の生えたサチを想起する。あのときの彼女はたしかに天使のようだったが、それは翼があったからで、表情はあいかわらず読み取れなかった。それに足が背中に食い込んだ。
「サチの足が変化したのもフラグメントかい?」
「ああ、そうじゃろうな。あやつは少し情緒が不安定じゃて、イメージするときに翼だけじゃなくもっと確固な『鳥』という概念を想像したんじゃろう。こればっかりは本人に聞かんとわからんが、聞いたとてわかる保証はないじゃろうがの」
「あのコは精神障害なのよ。体のほうに問題はないんだけどね」
「随分な物言いだなあ」
「こんなところで遠慮してても意味ないじゃない」
 絵美の視線が鋭くなった。
「たしかにこの研究所でインコンプリートの体を検査してはみたが、健常者との差異はこれといってみつからん。お主の体も、異常はないぞい」
「……事故の後に? ケガも治して?」
「ふむ、『事故』というのをお主が最初にここに運ばれるきっかけとなった事故のことなら、たしかにそのとき検査をしたし治療もした。じゃがペドフォビアンと戦った後もお主は満身創痍じゃったからの。検査も治療もしたぞい」
 勝也は戦いのことを思い出そうとしたが、やたらと興奮していたことしかほとんどわからない。
「どんなケガしてたっけ?」
「そんなことも憶えてないの?」
 絵美が嘲笑した。
「まず顕著だったのが背中の傷じゃな。サチの鳥の足で掴まれていたからもともと傷はあったんじゃが、お主がサチから離れるためにサチにそう伝えんとむりやり引き剥がしたから、サチの爪に背中の肉がごっそり千切られてしまったんじゃ。戦闘中じゃからアドレナリンが出とったのかしらんが、痛みは尋常ではないじゃろうし放置しておれば失血死する可能性もあったんじゃぞ」
「痛覚の神経がないんじゃないの」
 博士は笑い、絵美は腕を組んで憮然としている。
「背中の傷は局所的なもっじゃったが、全体的に筋肉の崩壊が起こっておった。これはお主がバスを止めるためにフラグメントを使って筋肉を激化させたことが原因じゃろう。お主のフラグメントは筋肉を激化させることのようじゃから、筋肉痛のやたらめったら酷い版とでも思えばいい」
 たしかに動くだけで体は痛いしだるい。体全体というのは程度が過ぎるが筋肉痛といえなくもない。
「お主がフラグメントを頻発すれば体の崩壊も激化するじゃろう。じゃからフラグメントは濫用すべきではない。じゃがのう、ここは研究所じゃてフラグメントを使ってもらわにゃ研究にならん。そこが悩みどころじゃ」
 博士は立ち上がるとドアから出た。勝也と絵美もそれに従う。
「お主がバスを追う間中ずっとサチの爪で背中を穿たれておったわけじゃが、絵美はそれを感応によって痛みを緩和させておったわけじゃ」
「少し違うわね。緩和じゃなくて除去よ」
 ヒョホッ、と博士が笑う。この痛々しい会話の内容でふざけていられる2人が不思議だ。
「しかし今回は勝也と絵美の大活躍じゃったの。勝也の防衛の力に絵美の補佐能力が加わって巧く機能しおった。案外お主らはいいコンビかもしれんの、フヒョヒョ」
 勝也は隣の女のコを見遣るが、なにを馬鹿馬鹿しいことを、とでもいいたげな顔をしていた。
「ところでさ、人の記憶を消せる博士の能力って」
「ああ、そうじゃな。わしもパラフィリアンの一味じゃて、僅かじゃが使えるぞい。とはいえ長期記憶や対象人物に関与する記憶は消しにくいがの」
「というと?」
「その人物が深く憶えている事柄やアイデンティティの形成にかかわっている物事の記憶は変容させにくいということじゃ」
「……ぜんぜんわからない」
「あなたが幼女好きになった理由に関する記憶は消せないってことよ。人格や性格に繋がる記憶は、その人の人格を崩壊することになる。博士の能力もそこまではできないってこと」
 その『幼女好き』という短絡的な物言いに睨みつけるが、絵美は肩をすくめるだけだ。
「多くの人間の浅い記憶を操るよりも、1人の人間の深い記憶を操るほうがずっと難しいんじゃ。足し算を1億回するのと、P≠NP問題を解決するのとでは難度が違うわい、ホヒッ。それと簡単にならば偽りの記憶を植えつけることもできるぞい。今回はバスジャックが誤って池にバスを突っ込ませて爆発じゃとかな。記憶を改竄したことによる誤謬は少なからずあるが、しかたのないことじゃて」
 3人が着いたのは1階の食堂たった。

「節子さん、ハンバーグカレーを」
「セッちゃん、私はリブロースステーキで」
「あいよッ」
 カウンターの中では割烹着を着た5、60代のおばさんがいた。
「あなたはなにをするの?」
「えっ、あ……」
 そのときにふと持ち前の引っ込み思案が出るのがわかった。手を上げて頭を掻いたり髪に触ったり、鼻の頭や腰に手を当てたりした。その間も辛抱強く節子は待った。
「じゃ……同じので」
「博士さんと同じもの? それとも絵美ちゃんと?」
 その口調は決して急かすものではなかったが、自分のミスに慌てて顔から血の気が失せる。口からはわけのわからない吃音が繰り返され、垂れる汗を指で拭いてはシャツにこすりつけていた。
「両方っ」
「よしッ。カレーはご飯とスパゲティがあるけど? どうすんだい?」
 逃げ場のない質問に口のなかでもごもごいっていると、節子は「ご飯だね?」と聞き返してきたので、物言わず首を縦にふった。
「あいよッ」
 活気のある声を背中に、そそくさと勝也は去った。
 博士と絵美は向かい合わせに座って雑談している。一瞬どこに座っていいものか迷ったが、博士の隣の丸椅子に腰を据えた。
「逆流を止めるのは難しいわ。嵐の夜に雨粒を避けて歩けといわれてるようなものよ」
「そりゃできんわな」
「ええ。むしろそれを利用した戦い方ができないものかしら」
「ふむ。敵の心情を読み取るとかの」
「そうね。でもペドフィリアンでさえ読み取ることは無理だったわ。やっぱりインコンプリートには防壁のようなものがあるのよ。心を読み取られるのを防ぐような屈強な壁が」
 そのやりとりを聞いて、勝也は入り込んでもなにもわからないと見切りをつけた。フラグメントのことなんてわからない。博士や絵美は勝也自身もフラグメントを使ってバスを止めたというが、うっすらと記憶があるだけで曖昧にしか憶えていない。
 食堂は広く、優に30人は入れそうだ。その片隅で3人はまとまって座っていた。快適な室温とは裏腹に、窓で切り取られた青い世界は夏の様相を呈している。
 ここにいれば帰る必要はないのかもしれない。鬱陶しい決まりごとばかりの世界。出る杭は打たれる。想像の範疇に収まらないケースは除外し、なかったことにする連中。少なくともこの場所は、彼を受け入れている。博士や絵美は、事実の上では彼を必要としている。それが好意などの感情とはまったく関係がないことを知りながらも、それでいいかもしれないと感じる。必要とされる、というのは心地いいことだ。ガソリンスタンドのバイトという小さなビス給油口から、社会の悪と戦うパラフィリアンの一員という少し大きな歯車に変わるだけだ。
 ぼんやりと、これは夢だ、と信じた。醒めることのない夢。夢という名の現実だ。普通の人の知り得ない現実。それはすでに夢なんだ。
「はい、お待ちい!」
 節子の大きな声を聞いて、博士と絵美は立ち上がる。それぞれに料理のトレーを手にして戻ってくる。勝也も倣って余った最後のトレーを持ち上げる。ハンバーグカレーとステーキが乗っている。そのトレーは重くたわんだが、勝也に注がれる節子の視線に類似していた。
「あ、ありがとうございます」
 表情も見ずに退散する。食堂を利用するのは極力少なくしようと決心した。
 席に戻ると、2人は美味しそうに食べていた。勝也も目の前の食事と向き合う。
 まず目を引いたのは、リブロースの熱さだった。指の第一関節ぐらいはあり、圧倒するボリュームだ。ナイフで押すと肉汁が脂身との隙間から溢れる。
 腹が鳴った。弱々しい犬の威嚇する声みたいなそれは、2人を小さく笑わせた。少し顔が赤くなるのを感じながら、ステーキを切って頬張る。
 弾力があって噛むごとに肉汁がとろけ出し、噛むごとに欠片は小さくなっていく。しっかりと食感がありながら、口のなかにしつこく留まらない。まるで遠距離恋愛のカップルのように濃厚な一瞬。まだ一緒にいたいと思うけれど、時は迫り離れ離れに。その瞬間をもっと味わいたくて勝也は次々にステーキを放り込んだ。
 ハンバーグカレーもボリュームがあり、左にルウの海、右に白いご飯の陸があった。まるでその陸に上がろうとしている大亀のごとくハンバーグが鎮座している。背中にはルウがかかっていて、見た目からキレイだ。
 博士はスパゲティにしたらしく、箸でつまんではチュルチュルと吸っている。絵美が子供ね、とでもいいたげに眉をハの字にする。彼女は600gはありそうだった肉塊が、半分はなくなっている。
 カレーの海をすくうと、黄金色の油が浮いていた。スパイシーで体が熱くなる。ご飯と一緒に口に含むと、辛味が抑えられて甘みが際立つ。ハンバーグをスプーンで切ると、肉汁が海に溢れた。胡椒がよく効いていて、カレーにも負けていない。三者をどの組み合わせで食べても美味しかった。


 空腹を満たすと、3人で少し雑談をした。それは戦いとも専門知識も関係のない会話だった。絵美は勝也に生活費のことを尋ね、たぶんバイトはクビになったと答えた。その推測のおかしさに2人は笑った。この食堂はタダだと博士がいい、研究所に住めば家賃も浮くと絵美がいう。聞くところによれば、博士も絵美も研究所に住んでいるらしい。そしてサチも節子も。
「そういえば太次郎はどこ行ったんだろうね」
「太次郎ならクーパーズタウン支所じゃぞ」
「あら、ド田舎に行っちゃってるのね」
 話題が逸れたと感じて、勝也は立ち上がった。
「どこに行くの?」
「さあ。どこかに」
「暗くなる前に帰ってくるんじゃぞ。ヒョヒョッ」

 階段を上がりながら、どこかとはどこだろうかと考える。行きたいところはどこだろう。辿り着きたい場所はどこだろう。なりたい未来はどこだろう。死にたい場所はどこだろう。
 特に深い意味などないただの連想ゲーム。目的のための目的として、勝也はドアを開けた。
 途端に風が舞い込む。屋上は大きな空を見上げていた。
 屋上から見渡せば、島のなかで行ってみたい場所も見つかるかもしれない。
 だがそこには先客がいた。サチだ。相変わらずの白い顔に白いワンピース。そして白い体。雑誌のグラビアになるような生々しい画ではなく、芸術品として写されたパウダーをふるったようなきめの細かい色。サチには話しかけづらい印象がある。それは勝也の人見知りの部分からではなく、彼女の整合性からだった。彼女はしゃべらないことで完成している。黙っていて、誰にも話しかけられず関わりをもたないことで安定している。それこそ写真のなかの美しさだった。
 戦闘中に見たような翼はない。彼女は天使ではない。ただの人間だ。それも白痴か精神耗弱のような正常な人間とは違う程度の。それとも単純な知恵遅れかもしれない。
 様々な侮蔑の言葉を考えていると、サチが振り返った。勝也は内心で怯えた。心の裡を読まれて、彼女がなにか反撃をしてくるかと思った。
 しかし彼女のしたことは単純で、勝也の予想を裏切るものだった。
 サチは勝也にニコリと――目は子供を慈しむ母のように柔らかく、口角は淡く持ち上げられて、どこにも無理は見当たらなかった――頬笑んだ。



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