15話「ひと突き - a thrust」

 無精ひげを生やした男が、黄ばんだTシャツに身を包んで歩道を歩いていた。左手には缶ビール、右手には細長い楕円形の物体が握られていた。缶ビールをあおって右手の青いラバーのついたそれをふらふらと振り回す。擦れ違う人々は顔色には出さないが、彼を迂回するように歩き去っていた。
 頻繁な脱色でスカスカになって、金というより卵色の髪を逆立てたスカジャンの男が、擦れ違い様に大きく舌打ちをして、ひげの男の足元に唾を吐いた。市販のガムの甘くて安っぽいグレープのフレーバーが漂った。
「ジジイが。昼から呑んでんじゃねえよ」
 スカジャンの男は過ぎ去ろうとしていたが、ひげの男は聞き逃さなかった。
「なんだとう」
 ひげの男は右手を大きく振った。スカジャンの男はそれを軽々と避けたが、彼の耳元でカシャンと音がした。
 耳元がさっくりと切れていた。
「ってええ!」
 スカジャンが叫ぶ。へへへぇ、とひげが笑う。ひげの右手には折りたたみ式のナイフが握られていた。
「このクソジジイ……」
 滴る血を手で抑えながら怒気を滲ませるスカジャンを見て、ひげは右手を前に構えた。
 スカジャンは、ケンカなら何度もしたことがあった。獲物を手にしたヤツを相手にしたこともある。だからひげの男が刃物を扱い慣れていないことも、酔って感覚が鈍っていることも充分に承知していた。ナイフさえ奪えばボコれる。正当防衛という隠れ蓑だってある。半殺しで済ませてやろう、と考えた。
 ひげが足を踏み出すのを見て、それが間合いに入りきれずに切っ先の届かない距離だと予測する。スカジャンの脳裏には、ひげが右腕を振り切った後にその腕を掴んで、膝蹴りで肘を曲がらないはずの方向に曲げてやった後、ナイフを奪って太腿を刺し動けなくして、思う存分リンチを加える様を想像していた。
 その胸にナイフが刺さった。柄が見えなくなるほど深くまで。
 ひげの男が、ナイフを投げつけたためだった。酔って大降りになったせいか、遠心力で刺さる勢いが強まったらしい。スカジャンは路上にうずくまって、倒れた。
 ひげはスカジャンの胸をさぐり――右側の肋骨の間にうまくもぐりこんでいた――ナイフを抜いた。
 スカジャンの男が低く呻くと、服が見る見る赤く染まり始めた。
「きたねっ」
 ひげは短く吐き捨てると、スカジャンの男を背に歩き出した。



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