24話「応急処置 - cure at emergency」

 勝也は来た道を戻って、一番近いエレベーターの前で伏せた。
 ペドフォビアンは、やはり策士かもしれない。ちょうど勝也が走っていた通路の先に、道をふさぐドアがあることを知っていて、攻撃するために待ち伏せをしていたのかもしれない。
 だがひとつの推測が成り立つ。『ペドフォビアンは対象(人間)が視界に入っていないと、攻撃を加えることができない』という仮説が。
 もし距離や見える見えないに関係なく攻撃できるなら、勝也を自由に走り回らせずに殺せばいい。むしろそんなことができれば、パラフィリアン全員を離れた場所から殺すことができるはずだ。つまり知らない場所の人間を攻撃しないんじゃなくて、できない――そう考えるのが自然だ。
 血が腕を伝って床に落ちる。床は滑り止めなのか、紺色のラバーで覆われているが、それもところどころ剥がれている。
 傷は深くない。左肩の関節よりも少し下、腕のほうを攻撃されたらしく、腕を回しても痛みはとくにない。痛みよりも血を止めるのが先決だ。
 血を止めるにはどうしたらいい? 止血するような布切れなんてないし、肩口の傷だと縛って止血するのは難しそうだ。
 いつかマンガで見たのを思い出す。思い切り力を入れることで筋肉を収縮させ、血管を圧迫して止血する。非現実的だと思いながら――マンガを参考にするという意味でも、肩に力を入れたまま敵と戦わないといけないという意味でも――ものは試しと、左肩に力を込めた。
 途端に左肩がコブのように膨れ上がり、血がブシュッと跳ねた。
 驚いてすぐに力を抜いてしまう。だが血が勢いよく出たのは一瞬だったようで、すぐに止まった。どういうことだろう?
 ふと博士のいっていたことを思い出す。
『お主のフラグメントは筋肉を激化させることのようじゃ』
 今のが博士や絵美のいっていたフラグメントってやつか? と勝也は訝しんだ。
 ともかく流血は収まった。でも痛みはまだ引かず、ジクジクと疼いている。なんにせよ、早く移動しないと。ペドフォビアンがこちらに向かっているかもしれない。
 勝也は右側の廊下――ドアで行き止まりになっていた――に戻らずに、左側の廊下に移動して走った。
 一度、奴を撹乱しないといけない。こちらの位置を把握されたままでは、相手は遠距離攻撃ができる分、こちらが不利だ。なんとか近づかないと……
 エレベーターの脇には階段がある。今さっきの渡り廊下の階段を上るのはさすがに危険だ。ひとつ前の渡り廊下へ戻って、そこの階段を上ろう。その思考が読まれている可能性もあるが、そこで躊躇していてはなにも始まらない。
 渡り廊下に着き、階段を駆け上る。コンクリートの灰色が目立つ階段は意外と急斜面で、3〜4階ほど上ると息が切れた。
 どこまで上る? とっさにその答えを、9階と打ち出す。
 ペドフィリアンも移動している。さっきは3階か4階にいたが、また上階に移動している可能性はある。こちらが高い位置に移動しない理由はない。10階へ行くのも手だが、9階へ上って見て階下を見下ろし、もし奴がいなさそうなら、それは奴が10階にいる可能性が高いということだ。かなり運に任せた戦法だが、なにもせずに突っ込むよりはマシだろう。
 完全に息のあがった肩を上下させながら、勝也は呼吸を落ち着けた。あいつが近くにいれば、呼吸の音で気取られるかもしれない。舌打ちをしたかったが、それも抑えた。
 ゆっくりと階段をあがっていき、9階に辿り着く。壁に背を預けて、周囲をうかがう。人の気配はない。その勘がどれほど正しいかわからないが、今は信用する他ない。自分の置かれた状況の危うさに、今さら自嘲が零れる。
 階段から渡り廊下に出ると、疲れていたからか足がもつれた。エレベーター脇の消火栓をすねでこすってしまって倒れそうになる。慌てて手を伸ばすが、金属音を立てて赤い消火栓は床に触れた。



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