――透明人間――

 とあるとき私は感覚がおかしくなるのに気づきました。
 それはなんとも表現し難いものですが、気配を感じるのです。
 初めにその感覚をおぼえたのは、社内でのことでした。その4階のフロアのなかには社員とバイトを含めて100人ほどいます。ええ、まあというのも私の会社はウェブデザインを請け負っているものですので。はい、PC用とケータイ用ですね。なので仕事は各個に分担されますので、人数が多くなってしまうのはしかたがないんです。私も入社してから6年が経つので、仕事場の雰囲気にはとっくに慣れています。
 でもね、それがおかしいんですよ。普段より多いんです。人が。あたりを見回してみると座っている人、立ち上がっている人、別のフロアへ行く人、トイレへ行く人、それぞれいます。でもね、それ以外にいるんですよ。でもそれが誰かわからない。どこにいるかわからない。
 わかってます。錯覚だというんでしょう。私も最初はそう思いました。気にしないように努めました。でも連日、続くんです。座っていれば背後に、エレベータに向かえばそのなかに、トイレへ行けば個室のなかに、いるんです。ただいるにはいるけれど、なにをするわけでもない。悪戯をしかけるわけでもなければ、なにか囁くわけでもなく、ましてや動く様子もなく、視線も感じない。ただ、いるんです。そこに。
 私はそれを「透明人間」と名づけました。そのときは何気ない、とくに思惑もない行動でしたが、今思えばそうすることで恐怖が薄らぐとでも思っていたのかもしれません。
 名づけたことが理由かはわかりませんが、恐怖は次第に薄れていきました。それも当然かもしれません。彼らはなにをするわけでもありませんから。危害を加えてこないなら、怖いとも思いませんよ。
 そしていつからか、透明人間の存在が当たり前になりました。そのときには彼らにぶつからないように配慮して避けるようになっていました。
 ある日、同僚と呑んでいるときだったと思います。その同僚の川野という奴が私に「どうしてなにもないところで避けるんだ?」と訊ねました。バイトの何々ちゃんが不思議がってたぞ、といいました。包み隠す必要もありませんから、私は正直に話しました。彼は笑いました。川野はもうすぐ課長に昇進しようかという男で現実的なヤツですから、超常現象はおろか、第六感すらも認めないという有様でして。
「気配なんてものは、耳や目、皮膚感覚といった総合知覚の産物さ」
 そういって一笑に附したのです。そしてこういいました。
「もし透明人間とやらがいるなら、俺に触れてみろってんだ」

 それから幾日か経って、川野が相談事があるといってきました。社内ではいいにくいことだから、仕事があけたら呑みに行こうと誘われました。
 居酒屋で彼が打ち明けたことは、透明人間のことでした。
 仕事をしていると、誰かに肩を叩かれるというのです。振り向いても誰もいない。周りの人間に聞いても、誰もそんなことはしていないという。リアリストの彼ですから、錯覚だろう、疲れているんだろうと考えるのをやめてしまいました。

 その頃には、社内では透明人間の話がちょっとしたブームになりました。川野は口の軽い人間ですから、すぐにしゃべってしまったんでしょう。笑いながらしゃべっているのが、容易に目に浮かびます。バイトの子たちすらも知っているようでした。肩を叩いたり息を吹きかけるといった些細な悪戯がはやりました。
 改めて川野に話を聞くと、「透明人間なんていないよ」とやっぱりうそぶくのです。
「あれはプラシーボ効果に順ずるものさ。起こる起こると思っていれば、必然的に起こる。とくに肩になにかが触れたり息を吹きかけられたりという瑣末なことならば、なおのことね」
 私は反論しませんでした。川野を躍起にさせてもいいことはないだろうし、どこか私はそれで納得したかったのかもしれません。しかし川野は余計な男です。なにかを附け足さずにはおれません。
「もし本当にいるなら、俺にケガを負わせてみろ。そんぐらい大きいことだとプラシーボは効かないんだぜ」

 翌日、彼が玉突き事故で搬入されたのはご存知の通りです。彼は全身が付随になってしまいました。頚椎を損傷したということでしたか。
 舌をうまく使うこともできなくなったため、彼の話すことはとても聞き取りにくくなってしまいました。しかし彼は必死に私にこういうのでした。
「あいつらが座席の後ろからつかみかかってきた」

 事故の原因は川野の不注意だったということで、損害をすべて彼が支払わなくてはいけなくなったということですが、それについては私はもうどうすることもできません。さすがにそれを負担することなどできませんからね。ただ、彼の不幸を憐れむばかりです。

 それ以降は不思議なことに、私の周りの透明人間は動きを変えました。
 まず、社内に留まらなくなったことです。たとえ帰路についても、電車のなかにいても、家で髪を洗っていても、いるんです。
 そしてもうひとつは、歩くようになったことでしょうか。道を歩いていると、後ろから誰かがついてくるんです。振り向いても誰もいない。また歩き出すと、やはり誰かついてくる。でも後ろには誰もいない。走れば、後ろから誰かが走ってきます。全力疾走すればするだけ追いかけてきます。ようやく家に着き一安心すれば、背中にべったりと気配がくっついているんです。

 それから何日か経って、不思議なことに気づきました。バイトの数が減っているんです。
「無断欠勤が続いた挙句に電話一本で辞めるといいだしたり、事故やケガ、家族の不幸なんかで辞めていく人間が何人もいるんだよ」
 訊ねてみると、部長はそういいました。
 私は合点しました。
 なにせその頃には、透明人間は動き回るどころか、ペンや書類を隠したりメモにコーヒーをはねさせたりという悪戯をするようになっていたんですから。
 彼ら透明人間は、おそらく誰かから「何々をしろ」だとかいわれると実行するのでしょう。そしてその度に賢くなっていく。納得した私は、不躾にも透明人間がペットのように思えてしかたがありませんでした。まるで飼い主にいろんなことを覚えさせられる犬のようにね。

 しかし飼い犬は飼い主の手を噛むことも多いんですよね。
 辞める人間があまりにも多くなって、業務に支障が現れ始めました。私や他の社員は2人分の仕事を担い、部長に至っては3〜4人分の仕事を1人で回していました。
 バイトたちが帰って、なんとかその日の業務を終えて一息ついていたときです。私は部長と軽い談話をしていたんですが、そこへ一人の女子社員が現れて、部長に辞表を突きつけました。理由はお察しの通り、透明人間です。彼女は川野と違って透明人間のことを信じ切っていて、「透明人間」という言葉を口に出すのさえ憚っていました。
 それで部長はキレてしまったんです。
「透明人間ヤロウ! いるならでてこいよ! 俺を殺してみろ!」
 その瞬間、私たちの前で部長は窓へ向かって吹っ飛んでいきました。殴られたのとはわけが違います。まるで胴上げでもするかのように足元をすくって持ち上げられて、何人もに支えられたように宙に浮き、窓を割って外に放り投げられたんです。
 何人もの社員や私が息を呑むなか、部長の悲鳴が遠くなっていき、鈍い音がしました。
 後には、血のついたガラス片が残りました。
 しかし私はそのとき彼らの気配を感じてしまったんです。それは階下への階段やエレベーターへ流れるものと、割れた窓から飛び降りるものとでした。
『俺を殺してみろ!』
 部長の言葉を思い出して、悪寒を感じました。透明人間たちは部長にとどめを刺すつもりだと悟りました。
「やめろ!」
 私は叫びました。
「やめるんだ!」
 何度も叫びました。窓から首を出して叫ぶと、アスファルトに叩きつけられた部長の手足が思い思いの方向を向いているのが見えました。窓についたガラス片で手が切れるのも構わず叫びました。すぐに階段やエレベータへ向かい同じことを叫びました。エレベータはまだ4階へは来ていませんでしたので、階段を駆け下りました。
 叫びながら表へ出ると、倒れている部長と目が合いました。恐怖と信じられない思いが入り混じった瞳は、私に答えを求めていました。しかし私は答えませんでした。すでに部長は知っていたんですから。
 部長に駆け寄ると、気配が彼の周りに密集していました。それは盗人の公開処刑の場で私刑を加える人集りに思えました。
 誰かが呼んだのでしょう、思いのほか早く来た救急車の遠いサイレンを聞きながら、私は耐え続けることはできないと確信しました。

 部長が入院すると、私たちの部の人間は私を含めて誰一人いなくなりました。つい先日、社が倒産したことを知りました。
 ですが私はそれを悲しんでいる余裕もありませんでした。家にいても、道にいても、駅にいても、街にいても。透明人間はいるんですから。

 先生、だからなんです。私が両目を潰したのは。
 見えないものに恐怖するのは、見えるものがあるからなんです。それならばいっそ、なにも見えなければいい。そうじゃないですか。
 ただね、やっぱり弊害というものはあるんですよ。ときおり、そこにいるはずの人が本当にいるのかわからなくなるんです。もともとその人間は人間だったのか、それとも透明人間だったのか、ってね。
 先生は、この疑問に答えを出せますか? ねえ、先生。
 ……先生? 先生?


《完》



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